吐瀉のさきで 首の影が

2021/08/28

 

雑記

 

最近泣いてないなと思う。自分のために泣けてない。「クソみたいな人生、クソみたいな自分というナルシズムってあるよね」みたいなツイートを見て結構刺さったけど、自分のことで愛憎積らせるのも劇的な自分に酔うのも、何が悪いんだろう。もっと自分に酔ってなきゃやってけへんのとちゃうか。
そうは思うが、こういった他者的な批判の視線に怯むよりもっと前に、もう泣けなくなってたんじゃないかな。自分以外にエネルギーを注げてるわけでもないのだが、激しく心が動くようなことが少なくなったように感じる。明らかにインプットも減っている。知識は増えたし言葉をこねくり回す遊びも覚えたけど、泣けて叫び出したくなるような、わなわな震えるような作品を探すのも探すのさえ避けてる。疲れちゃうんだよな。物足りなさも感じるけど。文脈のない、分断されたコンテンツを流すだけの消費には慣れてしまったのに。
かつての激情が占めていた席に、虚しさのようなものがぼんやりと座っている現在、穏やかでもある。自身の思考感情を大体全て糾弾していた脳内のだれかさんは嵐とともに霧散してしまった。虚しさにケチをつけるのも、そういう自分に怒られて萎縮するのも、どうでもよくなってしまった。摂食障害の症状は緩やかになった。空腹に恐怖しなくなり、満腹感も感じられるようになった。厳しいカロリー制限とその反動の食欲もするする萎んでいった。一日が長くなったし、予定も立てられるようになった。風呂にはいって夜に寝ている。書類や事務手続きも鼻を摘めばこなせてるしお金もなんとか管理できてる、気がする。そんなこんなで良い感じに見える。凡人になって輪郭が曖昧になった、なんて言うなよ。非凡でもなかっただろうに。
あ、でも、他人と関わる時間も減っている。他人に自分の劇的な様を評価してほしい、掬い取ってほしい、みたいな感情もなくなってきた。ほんと無欲になったね。まあ人と話したいし話したい人もいるし、依存を期待するのは全然やめられてないんだけど。結局希死念慮とかで繋がって、わかり合いたいって思っちゃう。どうしても少し死にたそうな優しい人に惹かれてしまう。まあ、こんなどうしようもない人間が一般人のふりして街に紛れこめてんだからよしとしようや。おい、また丸く収めようとしてる。どうしちゃったんだよぉ。
今、すごい大事なことに気づいた。死にたくなってない。死に方、妄想してない。ここ一週間くらい。あれ、こんなつらつら穏やかになってきた〜アピしたけど一週間なのね。わら。でもほんとになかったかも。こんな長いこと死にたくないのは。絶望の中の希望でもなく、ただただ死のうと思わない。誰も傷つけようと思わない。自他と薄い膜を隔ててバランスを取り始めた。
傷つけようと思わないで思い出したけど、最近ものすごくひどいこと言ったししたのにそれすらまあ仕方ないよなですましそうになってる。他人のこと傷つけてもなんも思わんくなっちゃったのかなぁ。正当化すらしているもの。今まで他人に優しくしなければ、傷つけてはいけない、って自分に言い聞かせてたのは自分と他人を分けられずに同じように見ていたからだってのはある。もともとめちゃくちゃ利己的な性格だし。「自分」の枠に入らない人間との時間やそれにかかる労力を、損得勘定でしか考えられないですからね。自己犠牲なんてくそくらえだよ、ほんとはさ。ほんとは、尊い犠牲、罪の意識、そんな陶酔「自分」にすらしなければよかったんかね。分かんない。
拗らせて捩れに捩れた思春期を送ってきて(今もか)、ときどき思い出して辛くなる。心が壊れた瞬間はいつだろう、と何度も考える。壊れた心を引きずって乗る人いっぱいの電車や商魂溢れるスーパーや大人数でのイベント事や正解のない他人の気持ちやそういう全部が、ひどく恐ろしい。そういう感情を音楽煙草諸々自傷で誤魔化し、罪悪感を殺してきた人間にとって、穏やかな時間は、何をすればいいか分からない。恐怖(単純にパニくる機会が激減しただけ)のない生活は持て余すほど偉大です。しかし困難を乗り越えたわけではなく遭遇しなくなっただけなので、私の休学裏テーマである、「苦しいとき死と自傷以外の乗り越える方法をみつける」は達成されてなそう。まあまずは変化からか。
ここまで、この状況を‘善いこと‘と表現するのを避けてきたのだがこれは自分の勇気のなさが反映されています。変化を改善と言えなかったりね。裏・休学裏テーマがあり、まだ結論が出てないからなのです。それは「早く人生終わらせるか長く生きようと思うかはっきり決めろ」です。早く人生終わらせるっていうのは、ずっとある欲求で、それはそれは魅力的なのね。重力みたいなもん。子供の時から30歳で死のうって決めてて、高校生のときに30まで生きんの金の無駄だし死ぬんなら早く潔く散れやと考えたわけです。
きっと今年、死ぬしかないって思わなくなれば、もう死ぬことはできなくなるのだろうな。それが虚しくてとても怖い。終わりの見えないマラソンをまだ続けるような、ぼんやりした息苦しさが、この先もずっとあるのかと思うと、ほんとに怖い。まだ生きることへの覚悟ができない。希死念慮は私を蝕みながら、私を世界から守るその場凌ぎの希望でもあるから。

最近、もう死にたいなんて思わせないでほしいとお願いしている。世界よ頼む、と。なんだか死にたい自分さえ乖離して、世界のせいにできている。外部と自分の構造を眺めている。なぜ苦しいのか分からないし、苦しくないと安心できない、自分を持て余す感覚が自分をひどく寂しくさせる。